がらがらっ、と雑に襖を開ければそこは無人だった。
「…なんでぇ、大将いねーの?」
畳の間へ遠慮なくあがりこみ、狭い室内を見渡してみる。すっかりと見慣れた蘭斗の部屋だ。書き物机も書棚も縁側もいつもの通りだが、本人だけどこにもいない。
と、そこへ廊下から足音がやってきた。開いていた入り口から蘭斗がひょこりと顔を出す。
「開きっぱなしだと思ったら…お前かよ。開けた襖は閉めろ。」
「よーぉ大将、ジャマすんぜー…って。」
さしものラグナも唖然とした。蘭斗の青い甚平はペンキでもぶちまけたように真っ赤だったからだ。顔やら腕やらも血まみれだ。
「……どーしたよそれ。」
「え?ああ…大丈夫。俺の血じゃねぇから。」
「ならいっけどよ…。」
「ちっと着替えるから、一旦でてけ。」
そう言うとラグナへ歩み寄り、むんずと首根っこを掴む。そのまま廊下へぺいっ。ぴしゃりと襖を閉めた。
「んだよその猫みたいな扱いはよー!!」
「すぐ済むから待ってな。」
妙に淡々とした声が返事する。
なんだよ大将の野郎、とふてくされながらも大人しく衣擦れの音を聞いて待つ。宣言通り、着替えはすぐ終わってラグナへ声がかかった。
部屋に戻ってみれば、着流しを纏った蘭斗が胡坐をかいていた。
自分から呼んだ割には、目の焦点がラグナに合っていない。
「何、今日外の仕事だったん?」
そんな蘭斗を気にも留めぬ様子で、ラグナは遠慮なく畳みへ座り込んだ。
「ん…まぁ、そんなとこだ。」
「大分ハデにやってきたみてーだなァ。」
「……まぁな。」
そこで改めて蘭斗がラグナを見やると、やたらきらきらした目と合った。
「………楽しそうだな、お前。」
「あ?そりゃあんなん見ちまったらな。あれ全部返り血とか相当だろ。どんなんだったんだ?」
「あのなぁ…嬉しそうに聞くなよお前。相変わらず頭イかれてんな…。」
ふぅ、と重めの溜息が零れた。ラグナのそういうところは、どうにも理解できない。
荒事の多い仕事とはいえ。
戦場は戦場だ。気を抜けば命を失う張り詰めた綱渡りだ。やむを得ないから気合い入れて臨み、どうにか乗り越えるものだと蘭斗は思ってる。
ラグナのように愉しさを覚える感覚は、自分には理解らない。
「ひゃっひゃ、言ってろバーカ。あーでもやべぇ惚れ直しちまうってマジ。」
興奮を押さえきれないのか、右拳でぱんっと左手を打つ。まるで子どもみたいに楽しそうな目が蘭斗を映した。
「あんだけ返り血喰らっといて大将無傷なんだろ?やっぱ強ぇーわ大将。いつかもっぺん戦ろうぜ、サシでよォ!」
手放しの賛辞には、世辞など全くないのがよくわかる。そもそもこいつの辞書にそんなものないだろうが。
蘭斗はきょとんとまばたきした後…噴き出して笑った。
「なっ、おい。何笑ってんだよおい!別に笑うとこじゃねーだろ!?」
「わり…でもなんか…っはは…!」
くすくす、と溢れる笑いが止まらなくて肩が揺れる。
理解はできないし、頭おかしいとしか思えないのだが、不思議なことに。
「お前らしーわ…。」
それにほっとしてしまう、自分がいた。


その時。
心の奥で、何かが切れるのを蘭斗は感じた。
ぴんと張っていた、細い細い糸のような何か。
切れてしまった糸が、地上へはらりと落ちていくように、

両の目から、音もなく涙が零れていた。


「……え?」
ラグナも驚いたが、それ以上に蘭斗が驚いた。
「あ、え、わりちょっとまっ…え…?」
慌てて裾でぬぐったが、次から次へと零れてくる。悲しくないし辛くもないのに零れてくる。
どうしたんだよ、おい。どうしていいかわからなくて、俯いてゴーグルをかけた。
人前で泣くなんてあっちゃならない。
それは俺に、"灯籠組の頭"に、あってはならない弱さだ。


ぐい、とゴーグルがわしづかまれる。
無理矢理ゴーグルと顔を上げられると、目元を舌が撫ぜた。
驚いて目を瞠ると、至近距離でラグナと目が合う。
「――イイ女が泣くなって。なァ?」
にぃと笑み混じりに言われてしまい。呆けたように見つめ返した後、我に返って蘭斗はぐしぐし目を擦った。
「女じゃ、ねぇし…。」
「あれ、そうだっけか。…睨むなって。そりゃ野郎だとはわかってるっての。」
でも、よ。不意にラグナが顎を捕え、目尻に唇を押し当てる。
「…俺のオンナには、違いねェだろ?」
惚れた奴に泣かれるのは、趣味じゃねーんだ。

これだけの至近距離だ。ぼっと目尻が赤くなればすぐバレる。やばっと思った時にはもう遅く、目に留めたラグナがにやにや笑っていた。
「っ、離せ。」
ぺいっとその手を払うと、蘭斗はそっぽを向く。今だけは自分の服装を呪った。これじゃ火照った耳も首もごまかせやしない。
何一つごまかせず、ぽろりと中身を零してしまう。
まるで氷が温かさで溶けるように。ちらりと流し目で蘭斗はラグナを伺った。気がつけばこの位置は、彼の隣は、そんな温かさを持った場所になっていて。


「―――…俺で、いいのかよ。」


小さな呟き。幸か不幸か、今度はバレなかったようだ。
「? なんか言ったか大将。」
「…別に。」




剥 落


(少しずつ、落ちていく。)

fin.