時折。息が詰まりそうになる。
そう例えば、
その手が自分の頬を撫でる瞬間、とか。

「どうかしたかい?」
「…いえ、」
まだ離れない手の感触から、バイジャは意識を引き剥がした。
「何も…ございません。」
引き剥がした。引き剥がそうと、した。

片膝つき主を見上げるバイジャと、椅子にかけて微笑むアルヘオと。
手を振り払うなどできる訳がない。微動だにできないその様に、アルヘオは笑みを深めて、もう片方の手も添えた。
「おかしな奴だなぁ。」
くすくす、と笑った。ひどく整った音で笑った。そのまま頭を抱きしめるように、額を寄せる。
「……、申し訳…ございません。」
「構わないさ。もう少し気楽にしてくれていいんだよ?」
優しい、優しい音色を、鼓膜へと注ぎ込む。
「君は俺に最も近しい、同志なんだから。」
声の染み込んだ脊髄が、毛羽立っていく感触がした。
触れる手の感触に。注がれる声の音色に。奥底の何かがかきたてられて。知らず呑んでしまった息。吐き出し方が、わからなくなった。
「…とんでも…ございません、支部長。」
考えるな。考えるな。考えるな。ごぼりと蠢くそれから、目を逸らして、意識を引き剥がして。
「私は…私は、貴方様の一介の、部下にすぎません…。」
肺を締めるように、少しずつ息を吐く。息と共に何かが溢れ出そうで、怖かった。
いつから。いつからここまで、大きく膨れ上がってしまったのだろう。
御姿を見る度。御声を頂く度。その手に触れられる度。少しずつ。少しずつ。気付けば。取り返しがつかない程に。
触れたい、などと。
世迷い事が、よぎってしまう、程に。
「……。」
アルヘオの唇が、静かにつりあがった。
耳から顎にかけて、抱き上げるように添える両の手。軽く持ち上げればバイジャの顎が上がる。まるで首輪に引かれた犬のように。
驚いて瞠ったその目と、アルヘオの瞳が、合わさった。
まっすぐ、まっすぐ、注ぎ込まれるような、視線だった。
「バイジャ。」
名を呼ぶ声に、肩が跳ねる。
「君は誰よりも、俺に近しい同志だよ。」
やめてくれと、叫びそうになる。
声が視線が、逃げる理性を縫い留める。膨れ上がるそれをさらに、さらにかきたてる。
知らず震えていた唇を、
長い指が、ゆっくり、撫でた。


「―――もっと近くにおいで、バイジャ。」


見開く瞳孔。絶える、息。
逃げを封じられたその理性の、背後にはもう。



go to the Dogs

fin


慌ててついた手、体勢を崩し打ちつけた膝。じんわりとだが確実に痛みを主張していたが、今のバイジャには感じられなかった。
感じる余裕などなかった。
ついた両手のその間、ひどく至近距離で主と目を合わせている、今。
「――――。」
絶句した。口からも脳からも。
何、何が起きて、これ何、なんだこれ、何が。ホワイトアウトした頭はもはや疑問詞を連ねるだけのポンコツだ。
パニックの最高潮だった。砂嵐のようにおびただしい感情は高まりに高まって、ぶつんと切れている。
呼吸の仕方も忘れた自分を、アルヘオの瞳がじっと映し出していた。どうやら、心臓の動かし方は忘れられなかったらしい。
「……ッ!!!」
退こう、と思った。だが、それを行うにはあまりにも無音だった。
事故とはいえど痴態を起こしてしまったこの状態を、包む空間はあまりにも無音だったのだ。
あまりにもあまりにも無音すぎて、逆に指一本ここから動かす事すら恐ろしくなる。静寂は、まるでこの状況をそのまま保とうとするかのように、バイジャの行いに対し一切の反応を示さなかった。
許すかのように。今を。許さぬかのように。逃げを。静かで穏やかな、無音の圧力。
そう、アルヘオは顔色一つ変えず、ただただバイジャを見つめ続けていたのだ。
「……、…あ、」
アルヘオ様…?そんな問いかけの言葉すら、無音に潰された。
整ったその顔立ちに、かかる珊瑚色の髪は幾分ほつれている。つやりと、照りを孕んで。
敬愛し、崇拝する主を地べたに転がしているという冒涜極まりない眼前の景色。
冒涜極まりない。のに。どくり、高鳴る心臓の痛みは身動きを許さない。
その隙に視線はみんなみんな、根こそぎ、その冒涜へと奪われてしまった。

そして。目を奪われた事に気がついた今、今度は罪悪感が身動きを許さない。
そうなるともう底なし沼も同然だった。二重に、三重に、絡みつく劣情が四肢を喉を絞めあげる。とめどなく気付かされる浅ましさで死んでしまいたかったが。
「………。」
バイジャの死角で背に回された、白い白い手。

それが仕組まれたものだとは、微塵も気付けなかった。


植 物


fin.


「なにしたいの?」

それは随分突拍子がなかった。
青天白昼、支部長室、業務中の真っ只中。ついさっきまで任務の話をしていたその口で、アルヘオはにこっと微笑んでそう尋ねた。当然バイジャはぽかーんとする。
「……。…申し訳ありませんアルヘオ様、仰る意味が…」
「文字通りさ。何がしたいか言ってごらん?」
「何が、と仰りますと…」
「それは君にしかわからないさ。俺はエスパーじゃないからね。」
一歩、アルヘオが歩みよる。小柄なアルヘオはそっと視線を持ち上げ、微笑に悪戯めいた色を滲ませる。

「バイジャが俺にしたいこと、今ならなんでも許可してあげるよ。」

それは随分突拍子がなかった。
ので、意味を理解するのに数秒要した。理解してから硬直するのにコンマ1秒も要さなかった。
「………ッ、お、仰る、意味が…」
「わかったよね?」
「いえあの、私には、意味が、わかりかね…」
「わかったよね?」
逃げは許可されていなかったようだ。主にこうも笑顔でダメ押しされては、俯いて小さく「………はい。」と言うより他ない。それが面白かったのかアルヘオが珍しくくすくす笑った。
「さ、おいで。」
ただ人を呼ぶだけのような軽さで、アルヘオは言った。黒革が張られた来客用ソファに軽く腰かける。
ぴくんと顔を上げたバイジャは脊髄反射で近くに寄り、片膝をついた。良い子、と甘く囁いて白い手がその頭を撫でる。光栄すぎて頭が溶けそうだ。
だがしかしそれでごまかしきれるほどバイジャの理性は甘くなく。
おそるおそるバイジャがアルヘオを伺うと、アルヘオは微笑んだまま軽く首を傾げた。
「ん?どうしたの、バイジャ。」
「その……本当に、よろしいんですか…?」
「うん。許可したよ。」
「…光栄、ですがあの、今は業務時間でございますし、……場所が…」
「ふーん…。…そう、わかったよバイジャ。」
アルヘオはゆったりした所作でバイジャの耳に唇を寄せる。
「いらないのかな?」
囁かれた音色は、バイジャの背を粟立たせるには十分だった。
「っっと、とんでもございませんアルヘオ様…!!」
「おや、そうなんだ。いいよバイジャ、何がしたい?」
アルヘオはにこにこと優しく微笑んだまま、一瞬すぅと薄く目を開いた。
ねぇ。君は何をしたい?君の動機で、君の判断で、この白昼の中、その手を汚してごらん?

満ちた静けさは、随分長く感じられた。
その無音に負け、口火を切ったのはバイジャだ。
「…………、では、」
観念した声だった。それでも何度か呼吸を整え、ぎゅっと眉根を寄せながら。
「…無礼を…お許しください、アルヘオ様…。」
吸い寄せられるように両腕を伸ばし、背に回し…そしてとうとう、抱きしめた。


……そのまま、1・2分が経過する。
うん?とアルヘオがまばたきした。肩にうずまる臙脂色をちらと見る。
「…バイジャ?」
呼べばわかりやすく肩が跳ねた。
「ッ、は、い。」
「ねぇバイジャ。しないの?」
「は、え…?」
今度は本当に言われる意味がわからない様子だった。敬語もうまく使えない程に。
バイジャは一瞬顔を上げたが、その近さから逃げるようにまた肩へ埋まった。今にも死にそうな声がぼそぼそと洩れ聞こえる。

「…………僭越、ながら、今、させて、いただいて…」

その後はうあああああという呻きに変わって全く聞き取れなかった。
さしものアルヘオも意味を理解するのに数秒要する。理解してから呆然とするのにコンマ1秒も要さなかった。
「…君、バカだね。」
つい本音が口をつく。
「!?」
「いや、いい。うん、気分を害したとかそんなんじゃないから許可した通りにしていいよ。命令ね。」
命令と言われればそれ以上何も言えない。躊躇いながらもバイジャは少しだけ強く抱きしめた。心底満ち足りているのが気配でわかる。数秒後にはそれを恥じるように、ぎゅーっと額を肩に押し当てていた。
遠慮など一切なく、これがやりたい事そのものだと嫌でもわかる。ひしひしわかる。


(……バカだよ君。本当に。)
心底呆れ果てたアルヘオは小さく溜息をついた。
その頭をぐしゃぐしゃに撫でたい衝動は、必死に殺して。



Honey Trap?


(はたしてどちらがかかったのか。)

fin.

【3・4年程昔の話。】


砂埃が村中で舞う。絶叫の海の中、槍は鮮血を浴び続けた。
一人、二人、三人、四人、五人…両手指を越えてからはもう数えていない。
相手は訓練も何も受けていない、僻地で山羊を飼って生きる村人だ。雑草を摘むような作業だ。そう。雑草を。摘んでいるだけ。
少しずつ細っていく絶叫を、頭の隅で聴きながら。
どっ、と崩れ落ちた、死体。槍の血を払った。気付けば絶叫が絶えていた。

振り向いたら。
声を出す事もできない最後の一人が。
地にへたりこんでがたがたと震える、"色違い"の少女が、そこにいた。

…初めて、バイジャが眉根を寄せる。
感情を殺していた瞳が、揺らぐ。
怯えた瞳が見ていた。見ていた。見ていた。見ていた。
死にたくない。死にたくないよ。嫌という程にその想いを伝えながら。

"幼い子ども"が見ていた。
…バイジャは振り払うように首を振り、浮かんだ文章をかき消す。
"幼い子ども"、じゃない。

"色違い"、だ。
知らず叫びながら、槍を、振り下ろした。



柔らかくて、
脆い手応えだった。
柄に体重をかけ、荒く呼吸を繰り返す。見開いた瞳孔で、広がる赤い粘液を凝視しながら。
ざり、と砂を踏む音がして、はっと振り向く。
振り向くと、わずかに返り血を散らせたアルヘオが、涼しい顔でこちらへと来ていた。
「任務完了だね。」
「…アルヘオ、さん…。」
「アルヘオでいいのに。お疲れ様、バイジャ。」
アルヘオはにこりと微笑むと、そのまま薄く目を開けた。
「標的、始末完了だ。」
「……!」
「良い報告ができそうだよ。さ、ヘタに姿を見られる前に帰ろうか。」
そう言って、踵を返した。大きく伸びをしながらてくてくと歩いていく。
バイジャはその姿を呆然と見つめ…おそるおそる、また、血溜まりに目を向ける。
「バイジャ。」
びくっ、と肩が跳ねた。少し離れたアルヘオは目線だけを流し微笑する。
「早くおいで、バイジャ。」


「次の仕事が、あるんだからさ。」


「――――。」
次の、 仕事。
その、ひどく軽い言葉は。ぞっとする響きだったが、同時に甘い響きだった。
ヒトを殺した、という重さを、軽くしてくれそうな響き。
ああ、けれどそれは、それは。理性が、倫理観が、全神経に警鐘を鳴らす。
「バイジャ。」
その揺らぎは、甘い言葉の侵入を許す。
「おいで、バイジャ。」
蜜色の瞳が、バイジャを視た。

「そんなところに一人でいないで、こちらにおいで。」

どこまでも。どこまでも、響きは甘かった。
彼を揺さぶる言葉を把握し尽くした、計算づくの呪文だった。
「……―――。」
ああ。けれど。愚者は気付かない。
痛みから。苦しみから。解き放ってくれる救いの手に、人は容易く縋りつく。

槍を抜いた。手応えなく抜けた。
ただの水たまりから引き抜く事など、容易い、容易い、事だった。
「……はい。アルヘオさん。」
ざり、と。砂を踏む靴音が、一歩。






fin.


重厚な机につくアルヘオと、その正面に立つバイジャ。淡々と紡がれる報告に、アルヘオはじっと耳を傾ける。
手渡された報告書を受け取った時、不意にくすりと笑みが零れた。
「? どうかされましたか、アルヘオ様。」
「ふふ、なんでもないよバイジャ。」
報告書から目を離したアルヘオはそっと上目遣いに伺った。
「大分"仕事"慣れたなぁって今更思っちゃってね。4年前と比べたら、大した成長だ。」

バイジャは少し目を瞠ったが、すぐに平素の目に戻った。
「…恐れ入ります。」
揺らぎもしないその落ち着きも、4年前には無かったものだ。少しばかり、アルヘオの目に興味が灯った。
「ふふ、本当の事さ。昔は一匹仕留めるのも慣れない様子だったからね。」
にこにこと微笑みながら、言葉へ毒を忍ばせる。
「ここ最近はペース良く駆除してくれて、本当に助かってるよ。さすがは副支部長、というところかな。」

「…昔は、覚悟が足りなかったのです。」
小さく呟かれたその言葉に、アルヘオの睫毛がぴくりと揺れた。

「覚悟?」
「…己で選んだ道を進む覚悟です。」
伏し目がちにバイジャは言った。
「此処で生きる事を選んだのは自分。他者を殺して生きる事を選んだのは自分。」
覗き見える黄色い瞳は琥珀のように、いつしか様々な年季が刻まれていた。
「そう選択したという自覚が足りなかった、覚悟が足りなかった…ただ、それだけのことです。」

「……"他者"、か。」
アルヘオはゆっくり目を細め、口端を歪めた。組んだ両手の上に顎を乗せる。
「あの害獣どもが、"他者"?」
「っ、……申し訳ありません。」
「いいさ。昔から君はそうだ。俺は別に構わないよ。愚かだなと感想は抱くけれどね。」
そう言うと不意に、目を閉じた。

「…4年経ち。数多の害獣を屠っても。」
す、と目を開く。
「―――変わらないんだな、君は。」
その目はどこか、遠くを見るような切なさを湛えていた。



Angel caid


fin.


唇が、柔肌に押し当てられる。

最初はかたかた震えながら、蝶が止まる程もない怯えた軽さで。
次第に肌の質感に酔いしれるような、とろりとしたやわらかさで。
頬に。額に。肩口に。首に。蝶はそこから下へ行く事はない。同じところを彷徨って、何度も何度も口づける。
される側にしてみればあまりにも生ぬるい情事。なのに、気を抜けば自分までとろけそうで。アルヘオは眉根を寄せた。
戯れに、首筋に擦り寄り擽ってみる。
そうしたらぎゅっと抱きしめられて、それきり動かなくなってしまった。…失策だった。悟られぬよう、小さく息を吐いた。
(……ああ、もう。)
じれったい。もう少し、もう少し深みに来てほしいのだが。這いあがれないような深みまで。こんな子どものお遊びじゃ、首輪にすらなりゃしない。
しかしそう思っているのはどうやらアルヘオだけのようで。
バイジャは現時点でも十分に、平均的成人男女から見れば驚く程に十分に、羞恥と罪悪感と自己嫌悪で頭を抱えているらしかった。
それなら目的は達成といえば達成なのだが、なのだが。…一体いくつだ、お前。
(……変な奴、だなぁ。)
そりゃ、今までアルヘオが経験したような扱いを、バイジャがするとはとても想像できないけれど。そう、多分落差の激しさに戸惑っている。
あまりにも軽い、前戯とすら呼べない戯れで、いいのかと。口には絶対出さないが。
あまりにも軽くて。
いつでも、無かったことにできそうなくらい。軽くて。

「…ッ」
無意識に身じろいだ。…震えたんじゃない。身じろいだだけ。
するとアルヘオ以上にバイジャがびくっと跳ね、心配そうに目を合わせてきた。
ご主人を案ずる犬の目そのもの。
…なんて目してるの。くすっと笑みを零したアルヘオは、その頭をくしゃくしゃと撫でた。

「なんでもないさ。」
自分だけを映すその目に、少しだけ安堵したりして。



女王の


(リードに縋る。)

fin.