「チハルのごとく!! りみてっど!!」 -------------------------------------------------------------------------- ――――あの日から、だいたい3ヶ月が経った。 以前は綾崎君を「ハヤテ君」と呼んでいたのだが、なぜか恥ずかしくなって今は前と同じ「綾崎君」と呼ぶようになった。 そして今でも綾崎君とは、周囲に内緒にしながらも付き合いを続けていた。 とはいっても、綾崎君は執事の仕事、私も生徒会の仕事や咲夜さんのところでバイトしてたりで忙しい日々が続き、会う事はあんまり多くなかったが。 周囲には内緒にしてるから、おちおち教室とかじゃ話せないのもある。 だから、綾崎君との会話は専ら夜の携帯のメールだった。 そして…そんなメールのやり取りが続いた夏休みのある日。 ---今度の日曜日にお休みが出来たんですけど、もし良かったらどこかへ出かけませんか? そんな文面のメールが来た。 しかも絵文字と顔文字がいっぱいだ。男の子なのに何か女の子っぽいメールだ…。 私は普段こういうの使ってないな…使ったほうがいいんだろうか。 咲夜さんのメイドやってる時なら私も綾崎君みたいなメールの文面になるんだろうか。 …って!違う。メールの外見の話じゃないんだ。中身だ中身。 ――――今度の日曜日にお休みが出来たんですけど、もし良かったらどこかへ出かけませんか? こ、これってひょっとして…デートのお誘いってヤツか!? お、落ち着け、落ち着くんだ千桜!再確認だ。間違ってないか再確認するんだ! ――――今度の日曜日にお休みが出来たんですけど、もし良かったらどこかへ出かけませんか? うん・・・やっぱりこれは…間違いないな。 今度の土日か。予定は珍しく特にない…よな。 ――――こちらこそ特に用事もないので、喜んで一緒にお願いします。 送信。なんか変かな?こういう文面で合ってたっけ…。 やっぱりこういう事不慣れだからな…。綾崎君が変に思わなかったらいいのだが。 -------------------------------------------------------------------------- そしてやってきた日曜日。 「んー………。」 こんな感じで…いいかな? 鏡の前で姿を映して、変な所がないか確認する。 我ながら結構頑張ってみたと思うんだけどな…。 …おっともうこんな時間か。そろそろ行かないと。 集合場所にもうすぐ着く頃。 携帯に表示された時刻を見て、さすがにまだ綾崎君は来てないんだろうと思っていた。 …綾崎君より先に来て、綾崎君を待ってみたかったんだ。 そのつもりだったけど…。 「あ、千桜さんおはようございます。」 もう綾崎君はそこに居た。 「あ…ごめん、…ひょっとして待たせたかな?」 「いえいえ、僕も今来たところです。と言うか…お互い様ですね。」 「…そうだな。」 お互いに笑う私と綾崎君。 この時点で予定の時間までまだ20分もあったからだ。好きな人を待ち合わせ場所で待ってみたいというのは綾崎君も一緒だったらしい。 「えっと…こういう事ってあんまりないので不慣れですけど、今日はよろしくお願いいたします。」 あんまり…か。過去に綾崎君は誰かと付き合った事があるのだろうか。 だとしたら誰だろう? ヒナギクか?いや愛歌さんが悩んでたと言ってたしそれはないな。じゃあ瀬川さんか? それとも…私が知らない誰かと? 知らない女の子と一緒に出かけて笑ってる綾崎君。…何かそれを想像すると、胸が痛くなった。 「あの…千桜さん、どうかされましたか?」 こんな時に何そんな事で悩んでるんだよ私は…。 「私はこういう事…初めてだよ。」 「え、そうだったんですか!?僕はてっきり…。」 「…私が今まで他に誰かと付き合った事があると…思ってたのか?」 「はい。なんか咲夜さんのメイドやってる時は何でも経験豊富そうに見えてたんで…。」 「そんな。私の初恋だって…綾崎君だぞ。」 あぁ、何恥ずかしい事言ってるんだろう私は。頬が熱くなるのが自分でも分かった。 「そう…なんですか。」 「……そうなんだ。」 「えっと、あ…どこ行きましょうか?」 気まずい空気を振り払うかのような綾崎君の一言。 が、綾崎君は特に行先を考えていないらしい。 行くところか。そういえば…… 「確か今日発売の新刊があるんだけど、それ買いに行っていいかな?」 「いいですよ。でもまだこの時間だと店閉まってるんじゃ…。」 時間は9時半を回ったところ。確かに開店時間としてはまだ早かった。 「あ…そうか。どうしよう…。」 「なら少しお話しませんか?最近ずっとこういう機会なかったんで…。」 確かに、最近綾崎君と普通に話す機会なんて皆無だった。 「そうしよう。私も…ちょっと話したかった。」 こうして私は、店が開く時間まで、綾崎君といろいろ話すことにした。 -------------------------------------------------------------------------- 「それでですね、お嬢さまはうっかり限定版を2つ頼んでしまいまして…商品が届いた時にパニックになってましたよ。」 「あるあるそんな事。私もつい最近、新刊が出たから買ったんだけど、鞄から出すの忘れて次に別のを買いに行った時買った事すっかり忘れてて、で…同じの買っちゃって、家に帰ったら同じやつが2冊も鞄の中にあって驚いたよ。」 「そんな事があったんですか、僕はですね――――」 話すのは…他愛もないこと。 お互いに何かを求めようとはしなかった。 何故なんだろう。私と綾崎君は付き合っている仲なのにな。 そりゃ…ドラマや映画の情熱的なラブシーンに思いを馳せる事もある。でも自分でやろうとは思わなかった。 「自分にはまだ早い。」そういう感情が頭の片隅にあるからかもしれない。 それに…今こう話してるだけでも、私は十分楽しいし幸せだから。 でも、これで満足してていいのだろうかと思うこともあった。 綾崎君が他の女の子にも人気があるのは知ってるし、綾崎君を実際に好きなヒナギクみたいな子だっている。 綾崎君は自分からは滅多に押さなくて、押しに弱い性格というのは私だってよく知っている。だから少し不安になった。 …綾崎君が他の女の子に取られるかもしれない。という不安が。 私から想いを伝えたんだし、私がもっと積極的にならなきゃダメなのかも。 そう不安が陰ったが、 「あ、もうそろそろいい時間ですよ。」 話していると時間が経つのは早いもので、もう時計は10時半を指していた。 「そうだな。じゃぁ…そろそろ行ってもいいかな?」 「そうですね。行きましょうか。」 綾崎君が私の手を引く。 …私たちは電車で秋葉原へと向かった。 「いらっしゃいませ〜」 私たちは電車を降りて、秋葉原のとある大型アニメ店へ来ていた。 まぁ原作でも出てきてるしいちいちぼやかした表現にしなくてもいいのかもしれないが。 「あれ?春風さんじゃないか。今日は男連れてんだね。ひょっとして…彼氏?」 店内に入ると先輩が話しかけてきた。 「お久しぶりです。まぁ…はい。」 「そうか。彼氏居たんだ…。」 「はい。では…。」 目的のものを買うためエスカレーターを上る。 「いやぁ久しぶりに来ましたよここ。そういえば前はお嬢さまにDVDを譲っていただいてありがとうございました。」 エスカレーターを上りながら話しかけてきた綾崎君。 「…礼を言われるほどの事じゃないよ。私は店員としてお客を悲しませないようにしただけだからな。」 「でもあれやっぱり…千桜さんにとっては惜しかったんじゃないですか?」 「いや、なんか一回見たから後はまた見たくなったらレンタルでもいいかなって思ったよ。咲夜さんがアニメ方面に強いレンタルの店も教えてくれたし。」 「へぇ〜…。」 あの時、綾崎君はなんだか「ひょっとして…」みたいな顔してたけど、何故だろうか。 「あ、あったあった。これこれ。」 私はお目当ての新刊を見つけた。 「あ〜、それってアニメがつい最近始まった…『とある家庭と近所目録』ですよね。それ。」 「あ、知ってるのか?」 という私の問いに、綾崎君は、 「はい。お嬢さまも通販で新刊を予約の上にアニメも毎週欠かさずご覧になってるんで。」 「そうか〜。やっぱ見てたか…。」 やっぱり見てたんだな〜。あいつも。 キャラの良さが作品の良さの決め手だと私は思うんだがな。 そりゃ多少はストーリーも重要だけど、やっぱり作品の顔はキャラクターだからな。 私は会計を済ませると、店の外へと出た。 -------------------------------------------------------------------------- その後は…大体こうなった。 ゲーセンで二人でバトルしたり協力したり。 綾崎君は鍛えられてるのか本当にゲームが上手くて、そこそこなゲーマーを自認している私でもいい勝負を演じていた。 私が昔働いていたメイド喫茶に行って接客態度のイマイチさに文句を言って綾崎君になだめられたり。 まぁこんなの、いわゆるデート…とは言えるものではなかったかもしれなかった。 けど楽しかった。今日私が退屈を感じた事なんかひと時もなかった。 で…その時間がずっと続いてくれればいいと思っていた。 けど、時間に永遠はないからいつか終わりが来るのは当然だったし、今になって思えばこの日からが大変だった。 その始まりは、帰りの電車から降りた時のこと。 「ハヤテ君?」 聞きなれた声がふと、私の後ろで聞こえた。 「あ、ヒナギクさんじゃないですか。」 綾崎君と私が振り向くとそこには、私服姿のヒナギクが立っていた。 「あ、ハヤテ君。えっ…その子は!?」 どうやらヒナギクは私だと気づいてないらしい。 ヒナギクの綾崎君への好意を知っている分、私はヒナギクにはいずれ知られるまで知っておいて欲しくはなかった。 綾崎君を巡って、私がかなわないともっとも恐れている人の一人でもあったから。 何とか上手くごまかしてくれ、と綾崎君をじっと見てみるが…。 「え…千桜さん、ですよ。」 綾崎君はあっさりと言ってしまった。 だ〜!!何言っちゃってるんだ〜! と心の中で私は叫んでしまう私の願いもむなしく、綾崎君は私の正体をヒナギクにバラしてしまった。 綾崎君の一言に固まるヒナギク。 「千桜…、って事は、ハル子なの?」 もうこうなったら何をしても無駄だな…。私はしぶしぶ、頷いた。 「そ、そうだったの…で、やっぱりハヤテ君とハル子は…そ、その…、付き合ってるとか?」 「はい。」と答える綾崎君に、私はまたしぶしぶ頷かざるを得なかった。 ……本当は知られたくなかったのに。 それを見たヒナギクは、 「そ…そうなんだ。じゃ、じゃあ邪魔したら悪いし二人とも、ま…またね!」 と言って、くるりと私たちに背を向けて走って改札を抜けてしまった。 表情こそ崩していなかったヒナギクだったけど、どんな気持ちになっていたかは分かった。 「ヒナギクさん、どうかしたんですかね?」 帰り道で、私に問いかける綾崎君。 本当に…綾崎君は鈍感だな。ヒナギクに何か申し訳ないよ。 でも綾崎君がもし人の好意に敏感だったとしたら、私は今こうして綾崎君と歩いてはいないだろう。 その点では綾崎君の鈍感さに救われたのかもしれない。 …でもついにヒナギクにもバレてしまったし、綾崎君がヒナギクの好意に気づいてしまうかもしれない。 だったら…もしかすると綾崎君は…。ちょっと前に浮かんだ「不安」が現実味を帯びてきた。 「どうなんだろうな…ひょっとして、ヒナギクは綾崎君の事が好きだったんじゃないのかな?」 けれど、口から出たのは綾崎君への質問。 「あはは、まさか…ヒナギクさんが僕をだなんて、そんな事ある訳ないですよ。それに…」 …綾崎君はそれをあっさり否定した。きっと冗談としか思っていないのだろう。 「それに…ヒナギクさんが僕の事を好きだったとしても、今の僕には千桜さんがいますから…受け取れませんよ。」 「っ………!」 いっ…いきなりなんでそんな事をサラリと言ってくるんだ! けれど、綾崎君の言葉が私には嬉しかった。 私が抱いた「不安」を、一言で吹っ飛ばしてくれたから。 「…ありがとう。」 「…いえ。」 そして…しばらく二人で歩いていたら、 「あ、もうこんなところですか。今日はありがとうございました。」 今日のデートの終点、それぞれの家への分かれ道に着いてしまった。 もうここまで来ちゃったのか…。 「………。」 「どうしましたか?千桜さん。」 「ああ…ありがとう。今日も楽しかったよ。」 と言い終えてすぐ、綾崎君の唇を奪った。 「――――!?」 告白した日以来の2回目のキスだった。 唇を重ねるだけ。ただそれだけなのに何故こうもドキドキしてしまうんだろう。 10秒ほどして…、私は綾崎君から離れた。 「ぷはっ。千桜さん?」 「ありがとう。また今夜もメールするから。」 と言って私は自宅へ向かって猛ダッシュしていた。 理由は、積極的に綾崎君の唇を奪った恥ずかしさ。やっぱり大胆だったかな…。 …でも、こうしないともっと綾崎君とは近くなれない気がする。 顔を真っ赤にして家へ走りながら、私はそんな事を思った。 -------------------------------------------------------------------------- 翌日は久々に生徒会の用事が入り、私は生徒会室へと向かっていた。 夏休み特有の人気のない校舎と、掛け声があちらこちらで聞こえるグラウンドを見ながら生徒会室へと向かって歩いていた。 そして、生徒会室へとつながるエレベーターに乗ろうとした時だった。 「あっ…。」 エレベーターの前でヒナギクと出会った。 「おはよう。」 「お、おはよう…。」 返事がぎこちないヒナギク。やっぱり昨日の出来事が効いてしまっているみたいだ。 やっぱり昨日のアレはまずかったなぁ…と思っていた時、ちょうど待っていたエレベーターが1階に着いた。 「………。」 「………。」 お互いに無言でエレベーターへと乗り込んだ。 ヒナギクと二人、エレベーターの中。 普段なら他愛もない話とかをしているのだが、今日は空気が違った。 お互いに何も喋らない、なんだか気まずい空気だった。 理由はもちろん、昨日の一件だろう。私と綾崎君のデートを…見てしまった事。 ヒナギクにしてみれば、自分の好きな人が知らないうちに別の子とくっついていた……十分ショックなはずだ。 「………。」 「………。」 沈黙の空気。それが動いたのはもうエレベーターに乗る時間も後半分くらいというところだった。 「そ、そういえば…い、いつからハル子とハヤテ君って付き合ってるの?」 突然、ヒナギクが口を開いた。 「え? えっと…大体3ヶ月くらいかな。」 「そんなに…前からだったんだ。」 「……うん。」 「そっか…。」 「あっ、えっと…。その…」 私が言いかけたところで、エレベーターが頂上に着いて、それと同時にドアが開いた。 「じゃあ、これからも上手くいくといいわね。…応援してるわ。」 と言っていつもの定位置へと向かうヒナギク。 「え……あ、ありがとう…。」 と私が固まっていると、チンと音がしてエレベーターが下降を始めてしまった。 「あっ…。」 もう1回地上へと戻され、結局私はもう1回エレベータに乗る羽目になった。 -------------------------------------------------------------------------- 「…おはようございます。」 もう1回エレベーターに乗って、生徒会室へと再び上がってきた。 普通はまずないエレベーターの降り損ねなんかやっちゃったから少し恥ずかしいな…。 「あら千桜さん、何で1回下まで行っちゃったの?」 ようやくいつもの定位置まで来ると、愛歌さんが不思議そうな表情をしながら私に尋ねてきた。 「ちょっと考え事してたらエレベーターを降り損ねちゃいまして…。」 「そう。」 「…はい。」 …結局この日はエレベーターでの会話以降、ヒナギクと会話することはなかった。 「そっか〜。それはマズかったわね〜。」 「はい。それで何かヒナギクとも気まずくなっちゃって…。」 愛歌さんとの帰り道、話しているのは今日のヒナギクについてだった。 ヒナギクと私との間にできた微妙な距離感に愛歌さんが気づいてしまったらしく、不本意ながら私はそうなった経緯を話しているところだった。 「にしても休日にデートって事は、お二人さんずいぶん順調なようね。」 「っ……! はい、まぁ……。」 否定しても仕方のない事だから、戸惑ったものの私は肯定した。 「まぁ3ヶ月も経ってたら当たり前かしらね。ところで、どこまで進んでるの?」 …どこまで? それって、ひょっとして…。 「どこまでって、…何ですか?」 何となく愛歌さんの言いたいことが分かったような気がするが、念のため聞いておく。 勘違いで言っちゃったら恥ずかしいからな。 「何ですかってそりゃ…どれくらい進んでるの?って話よ。そうね…これは?」 と、愛歌さんは言い終わると自分の唇に人差し指を当ててみせた。 …さっきまでの話を総合するとこれは予想通り愛歌さんに「綾崎君とどれぐらいの関係まで進展しているか」を聞かれているのであって、つまり…。 唇に指を当ててるって事は、キスって事か? 「…まぁ、それくらいは…。」 と言うとさらに愛歌さんは、 「ふぅん…。……それ以上は?」 と聞いてきた。それ以上って、流石にそこまで現時点では…。 「ないです。」 「そうなの…。」 「って、何でこんなこと聞くんですか!?」 「その…やっぱり気になるじゃない?友達の恋愛事情がどう進んでるかって。」 「そりゃまぁ・・・。確かに気にならないというと嘘になりますけど。…ところで愛歌さんはどうなんですか?」 「私? …そうね〜。あの人は今海外へ出てるから会えないけど、将来は結婚する人だし、進むところまでは進んでるわね。」 …愛歌さんの違う一面を知ってしまったような…。う〜ん…何か聞かなかったほうが良かったかもしれない…。 「どうかした?」 「いえ、何も。」 「…まぁでも、このままならそう遠くないうちに、千桜さんも綾崎君と一緒に一線を越えてしまうかもしれないわね♪」 「なっ…何言ってるんですかっ!」 いきなりそんな事を言われると想像してしまったじゃないか…悩ましい事を。 うっすらと漫画のワンシーンで見た、あの先を。 「大丈夫よ。好きな人とはいずれ通る道なんだから。…じゃ、またね。」 「はい…。」 愛歌さんはクスッと笑うと手を振って、愛歌さんは自宅の方へと曲がっていった。 「これ以上の関係、か…。」 私は一人呟くと、家路へとゆっくり歩いていった。 -------------------------------------------------------------------------- その後私は、家に向かいながら愛歌さんの言葉に思いを巡らせていた。 …「その事」について、今まで一度も考えていなかったと言うと嘘になる。 「そこ」まで行ってしまうような小説や漫画を読む事だってある。 でも、そこまで行くのはなんにしても早過ぎだ。 大体それは深い純愛の上に成り立つものなのだから…安易にそんな関係になってはいけない、と私は思う。 …でも、もっと綾崎君に近づきたい、と昨日改めて思った。 そう思うのは好きな人がいれば当然だと思うし、綾崎君はああ言ってくれたけれど私もこのままじゃいけないと思う。 何をどうしたら私は変われるか。私は自室でそんな事を考えていた。 「…口調、変えてみようかな?」 どうも今の男っぽいこんな口調じゃあ可愛いとは言えないだろう。 普段は2種類の口調を使い分けている私だが。 そういえば…付き合った初めの頃はメイドやってる時の口調だったんだよな。 いつの間にか今みたいな口調に戻ってしまったけど…。綾崎君はどっちが好きなんだろうか? よし、次に綾崎君に会う時はもっと明るくて元気な子をイメージしてやってみよう。 …そしてそれを試すチャンスは、意外にも早く訪れてしまった。 それは、それから一週間後の夏休みの登校日の帰り道のことだった。 あのちっさな三千院家のご令嬢は今日も絶賛欠席中だったそうで、たまたま…私と綾崎君は二人で帰れる事になったのだ。 なかなかお互い忙しいし二人きりになれる機会は少ないから、こういった少しの時間でも、私は有り難かった。 夏の元気な太陽の日差しを直に受けて私は綾崎君と歩く。 「…最近どうですか?千桜さんは。」 「そうだね…特に何もないよ。…綾崎君は?」 私は持てる演技力の全てで「明るくて元気な子」を演じていた。 綾崎君は一瞬驚いたようだけど、そのまま話を聞いてくれている。 「僕ですか? え〜っと…そうですね。はは、僕も特に何も。そういえばもう夏休みも半分なんですよね。」 そういやそうだったんだよな。もう8月も10日…夏休みも半分か。 「そういえばそうだよね〜。早いよね。」 「そういえば、千桜さんは残りの夏休みの予定とかは立てていらっしゃるんですか?」 夏休みの予定か。そういうものは…ん〜…。 「ん〜、特にないかな〜。一週間したら親が旅行に行くぐらいで、私には咲夜さんとこのバイトもあるし、特に予定はないよ…。」 悲しいながらこれが現実だった。 「そうなんですか。じゃあまた近いうちに二人で出かけたり…如何ですか?」 またの綾崎君からのお誘いだった。 「綾崎君がいいなら、私はいいよ。」 もちろんだ。また前みたいな日が過ごせるなら、私は喜んでまた行くよ。 「分かりました。では僕、また近いうちに何とか考えておきますんで。…あ、もうこんな所ですか。それでは千桜さん、また!」 「ありがとう。また…。」 …二人で話していたら、通学路なんてあっという間だった。 もうちょっと話したかったのにな。 …今日の私を、綾崎君はどう思っていたのだろうか? -------------------------------------------------------------------------- 私たち二人を取り巻く状況が急展開を見せたのは、次の日の夜の事だった。 「たまには電話もいいね。」 私は例の「明るくて元気な子」モードだった。 「はい。お互い声が聞こえるって言うのはやっぱりいいですね〜。なんか安心できます。」 と、この日は綾崎君と電話をしていたのも、その日起こる事を予期していたからかもしれない。 綾崎君と話が盛り上がっていたところに、それは起こってしまった。 「それでですね、つg…」 突然、綾崎君の話が途切れた。ん?何があったんだろう。 その後の電話口の向こうで聞こえたのは……。 「おいハヤテ、電話の相手は誰だ?」 「お…お嬢さま!どうして…」 「たまたま廊下を歩いてたら中庭でお前が楽しげに電話しているのが見えてな。で、誰と話しているんだ誰と?」 電話口の向こうで聞こえるのは不信感たっぷりの声とひたすら低姿勢な声。どうやら綾崎君とナギらしい。 「えっと…千桜さんです。」 「千桜?……何でお前があいつに電話なんかしてるんだ?」 電話口の向こうで聞こえる声はヒートアップする。 「あ…そ、それは…えっと…。」 「…お、お前まさか、あ、あいつと付き合ってる…なんて事はないだろうな!」 …嫌な、予感がした。 「………。」 「…お前、ひょっとして本当なのか?あいつと…あいつと付き合ってるのか?」 「・・・・・・はい。もう少ししたらお嬢さまにもお知らせしようと思っていました。」 「……バカッ!」 「……すいません。すぐにお伝えしなくて申し訳ありませんでした!」 綾崎君とナギの言葉の間にズレが出てきた。 嫌な予感は増すばかりだ。 「ハ…ハヤテのバカッ!ち、違う!そうじゃない!お前はずっと…ずっと私だけを見てくれるんじゃなかったのか!」 「……大変すいませんでした!」 「も、もういい分かった!お前みたいなヤツはもうあいつと好きにしてればいいだろ!!っ……お前なんか大っ嫌いだ!この屋敷から出て行けぇー!!」 綾崎君への最後通牒が渡される瞬間を聞いてしまった。 「お嬢さま…。」 「おい、お前居るんだろ!?聞こえてるか?」 しばらくの沈黙の後、突然電話口の声が急に近くなった。 気迫が怖かったが、答えないわけにはいかなかった。 「………ああ。」 恐る恐る、私は答える。 「やい!…お前は、私を利用してハヤテを奪った泥棒だったんだな!?」 「え、いや…その…。」 「言い訳なんか聞きたくない!お前なんかもう大っ嫌いだ!せっかく…せっかくお前を友達だと思ってたのに!!…こ、この裏切り者っ!!」 ここで電話は切れた。 ……コトッ。 切れたと同時に、私は放心してしまって携帯を取り落としてしまった。 「もう綾崎君とは、会えなくなるかもしれない」…そんな予感を、私は感じていた。 -------------------------------------------------------------------------- その悪い予感というのは、結局当たってしまうものだった。 私は昨日の出来事を悪夢だって思いたかった。受け入れたくなかった。 でも残酷な事に、これは現実そのものだった。 翌朝起きて携帯を開いてみると、そこには1通のメールが入っていた。 送り主は…予想通り、「綾崎 ハヤテ」。そして件名は…「楽しかったです。」 このメールにはこう書かれていた。 ――――このメールを貴女が読む時には、もう僕はこの街に居ないでしょう。 突然ですが、さよならを言わなくてはならなくなりました。 本当は直接会って貴女の前で話すのが最善なのですが、僕にはもう時間がありません。 ですので、メールでのご挨拶とさせて頂きました。本当にごめんなさい。 僕は…もともと前からお話させて頂いたようにお嬢さまに自分の借金を返してもらっていた身分でした。 ですが、僕はお嬢さまが何故僕の借金を返して下さったのか…その本当の理由を僕は知らなかったのです。 昨日のお嬢さまとの一件の後、マリアさんに全てを教えられ、その真実を知りました。 お嬢さまはずっと僕の事を想って下さっていたのです。それで愛する人のため、と僕の借金を自分が立替え、帳消しにして頂いたようです。 ですが僕はその気持ちにまったく気づけずに、ここまでを過ごしてしまいました。 要するに、僕はお嬢さまのお気持ちをずっと踏みにじっていたのです。 それで、昨日のような事となってしまいました。 …でも誤解しないで下さい。別に貴女のせいではないのです。 僕が自ら選んだ事なのですから。 それにより貴女を傷つけることになってしまった事、大変申し訳ありませんでした。 僕はこれから、お嬢さまへの借金の残額を返済するために必死で働いてこようと思います。 何年かかってでも、この借金だけは必ず返済します。お嬢さまのあの恩義に何としても報いる必要が僕にはあるからです。 今まで、ありがとうございました。この数ヶ月間、本当に楽しかったですよ。 最後に…このような立場の人間が言えた事ではありませんが、一つだけ貴女に言っておきたかった事があります。 僕は本当に、貴女の事が好きでした。愛していました。 決して軽い意味ではなく、真剣にそうでした。 …今まで、ありがとうございました。それでは、さようなら。 …………。 「いやいや、これは夢なんだきっと。そうそう…悪夢なんだよな?」 昨日の出来事は悪夢で、今はその続きだと思いたかった。 いつもより丁寧に書かれたメールの文面をもう一度読み返して、自分の右頬を軽くつねってみる。 …痛かった。つねる位だからすごく痛いわけではないけど、その痛みは私を現実に引き戻すには十分だった。 「ふっ…おかしいよ綾崎君。今は8月だぞ、エイプリルフールはもうとっくに過ぎたんだから…」 不思議と明るい声だったが、もちろんそんな訳はない。 痛いほど突きつけられている現実を直視できなかった。 「…嘘だよな、嘘だって言ってよ。…メールでもいいからさ。」 そんな事を言ったところで、当然返事なんか返ってくるわけもない。電話をかけてももちろん通じない。 ……本当に、綾崎君が居なくなってしまったんだ。これは全て本当なんだ。 今はっきりと、それを理解した。 理解したと同時に、自分の頬が涙で濡れるのが分かった。 -------------------------------------------------------------------------- よく晴れた夏の朝というものは普段とても清々しいものなのだが、今日だけは違っていた。 「うっ…ぐすっ……。」 静かに声を押し殺して、私は「愛する人にはもう会えない」という悲しみに打ちひしがれて自室で泣いていた。 「私のせいだ…。」 綾崎君はそうではないと言っていたが、絶対にこれは私のせいだ。 私が綾崎君を好きにならなければ、こんな事にはならなかった。 そのせいで、咲夜さんやヒナギク、さらにナギまでも傷つけてしまった。 昨日電話口で怒鳴られた「泥棒」「裏切り者」という言葉。同じ立場に立って考えてみれば分かる。 自分の友達だったはずの人間が自分の好きだった男の子を奪ったのなら、これは裏切り者だし、泥棒だ。 だから、私はその言葉が今になってより深く痛くなった。 そうだ。あの時自分の気持ちに気づいても、それを押し殺して遠くで見ているだけで良かったんだ。 …そうすれば辛いのは私だけで済んだ。綾崎君の人生を狂わせる事もなかった。とんでもない事を私はしてしまった。 どれくらい経ったのだろう。 ずっと泣いて、泣いて、泣いて…泣き疲れたのかいつの間にか私は眠ってしまっていた。 その眠りから私を覚ましたのは、一本の電話だった。 「♪〜」 一瞬綾崎君かと思ったけど…この着メロは咲夜さんか。 「はい。」 「今日はどないしたん?」 「え…はい?」 「いや〜いつまで経っても来うへんからなんか具合でも悪いんかと思ってなぁ……てかなんやえらい声暗ない?」 しまった、そういえば今日は咲夜さんの家にバイトへ行く約束だったんだ!何やってんだ私は! 「え、いえ大丈夫です。あ…え、もうこんな時間ですか?すいませんっ!すぐ行きます!」 見ると時計は11時を指していた。 「大丈夫なんやったら頼むで。んじゃ待っとるから。」 「…はい。」 電話を切って大急ぎで行く準備をする私。 たとえこんな状況においても仕事なんだ。行かないといけないんだ。 咲夜さんは私の大事な人なんだから。 いつまでも暗い気持ちじゃいけない。でもそうすぐに癒えるものじゃないというのはこういう事が初めてな私にも分かる。 今はただこの現実を忘れたかった。だから私はすぐに咲夜さんのお屋敷へと向かった。 -------------------------------------------------------------------------- 私が咲夜さんの屋敷へ着いた頃、時刻はもうすぐ正午になろうとしていた。 「こんにちは…。すいません、遅くなりました。」 「あ〜ハルさん、こんにちはって…ど、どないしたんその顔!?」 「え?」 「いや、その涙の痕と目ぇよ。…何かあったん?」 顔を洗ったところで、泣き腫らしてしまった顔はなかなかその痕跡を消すことはできない。 「いえ…大丈夫です。…ちょっと悲しい映画を見ちゃって。」 とっさに出た言い訳だった。確かに映画みたいなひどい別れ方だったけど。 「そうなん?まぁそれならええんやけど…。」 少し不信感を抱きつつも問わない咲夜さん。助かった…。 「大丈夫ですって…。安心してください。」 「そうか。んじゃちょっとのど渇いたし…紅茶頼もか。」 「はい。」 咲夜さんにバレかけてる…。 紅茶の用意をしながらそんな事を考えていた。 いっそ言ってしまおうかとも思った。こういうものは一人で落ち込むより他の人に励ましてもらった方が立ち直りが早いって聞いた事があるからだ。 …でもダメだ。咲夜さんに迷惑をかけるわけにはいかない。 まして咲夜さんは、自分を犠牲にしてまで私と綾崎君を応援してくれた。 その人に「私のせいでもう綾崎君とは会えなくなってしまった」とは申し訳なさ過ぎて言えるわけ…ないじゃないか。 「お待たせしました。」 「うん…じゃ頼むわ。」 コポコポ…。 カップに紅茶が注がれていく。 …………。 コポコポコポコポ…。 「え、ちょっ!ハルさんストップ!ストップや!」 「えっ…わっ!」 我に返る頃には、淹れた紅茶がすっかりカップから溢れて、茶色の池が出来てしまっていた。 「どないしたんや?」 「い、いえ何でもありません咲夜さん。すいません。すぐ拭きます!あっ!」 カタンッ! 溢れた紅茶を拭こうとしたら…今度は手が当たって並々の紅茶が入ったカップを転倒させてしまった。 「えっと………無理せんでもええねんで?」 急いで拭く私に咲夜さんが声をかけてくれますが、それも耳には入りませんでした。 「急いで新しいものを用意します!」 拭き終えるとサッと再び紅茶を淹れ直した。 「…なんか渋ない?」 紅茶は時間が経つと渋くなってしまう。前に綾崎君から教わった。 いつも一番おいしい時間に淹れるようにしてるから、今回はそれが裏目に出てしまった。 「すいません……。」 「なぁハルさん、ホンマに、ホンマに大丈夫?」 「大丈夫です。」 もう咲夜さんは不信感でいっぱいだろう。 普段私は滅多にこんな事にはならないから余計にだ。 「ホンマ…体調悪かったらいつでも言うてや?」 「…はい。」 心なら絶不調だった。 咲夜さんが私の淹れ損ねてしまった渋い紅茶を飲んでしばらくした時だった。 「そーいやこれナギんとこに返さなアカンかったなぁ。」 と、テレビの横に立ててあったゲームソフトを見る咲夜さん。 「よし、どーせ家におっても暇やし、これも返さなあかんし、ちょっとナギんとこ遊びに行ったるか。な、ハルさん♪」 咲夜さんは立ててあったゲームソフトを手に取ってちょっと考えて、今の私にとって最悪の決断をした。 だだだダメだダメだっ! 今私がそこへ行っては…そこへ行ってはいけないんだ! …でもそれは咲夜さんの提案した事。 私は断っても良かっただろうが、そんな事をしたら私により不信感を抱かれるのは明白だろう。 「…! はい……。」 「ん…何や?何か悪いことでもあるん?」 でも頭のいい咲夜さんにはごまかしきれなかったみたいだ。 「えっいや、それは…。」 「なら決まりやな。行こかっ!」 「はい…。」 持ち前の演技力で何とかするしかないか。でもそれが出来るだろうか。 昨日「泥棒」と怒声を浴びせられた人に面と向かって会えるだろうか。 それでも行くと決めたなら、出来るだけボロは見せないように、全てを悟られないようにするしかない。 私は咲夜さんと一緒に車に乗って、三千院家のお屋敷へ向かった。 -------------------------------------------------------------------------- 夏空に良く映える赤屋根に白壁の建物。それが三千院家のお屋敷だった。 「ありがとう。帰りまた呼ぶから頼むで。」 「はい。では。」 咲夜さんの次に降りてドアを閉めると、車は行ってしまった。 来てしまったんだな……ここに。 覚悟を決めて一歩を踏み出して、そのまま咲夜さんについて歩く。 玄関で咲夜さんが呼び鈴を鳴らすと、あのメイドさんが出てきた。 「こんにちはマリアさん。ナギおる〜?」 「…居ますけど、今は会わないほうがいいと思いますよ。」 「えっ!?何でや?風邪でもひいたん?」 「驚かないでくださいね。実は…………。」 咲夜さんに耳打ちするマリアさん。 そしてマリアさんから全てを聞き終わった咲夜さんは、ハッとした表情で私を見た。 もう全てが分かってしまったかのように。 「…え、えと、マリアさん!これ…ナギに「おもろかった」言うて返しといて!」  「は、はぁ…はい。」 「……ハルさん、…帰ろか!」 「は、はい!」 咲夜さんはマリアさんにゲームソフトを返すと、クルリと向きを変えてお屋敷に背を向けて歩き出した。 急いでそれについていく私。 「牧田か? すぐ車出して。もう帰るから。」 お屋敷の門のところで携帯で連絡を入れると、すぐに車がやってきた。 「…………。」 咲夜さんは車の中で何も言わなかった。 そしてお屋敷に着くと、 「今からちょっとウチの部屋来て。」 と咲夜さんに言われて、私は咲夜さんについていって咲夜さんの部屋へと入った。 咲夜さんは後ろ手に鍵を閉めると、 「まぁ…そこ、座ってくれへん?」 「…はい。」 ベッドと向かい合う形で置かれたソファーに私は座る。 「…………。」 咲夜さんが言い出すのを待つまで、私は待った。 「………なんで、黙ってたんや?」 ちょうど対面する形になった咲夜さんが、私をまっすぐに見て一言。 「……さ、咲夜さんにご迷惑をかけたくなかったからです。」 「迷惑かけたない……か。でもな、ええか?ハヤテがおらんくなって悲しいのはハルさんだけちゃうねんで? …で、何でおらんくなってしもたんや?理由(わけ)…知っとるんやろ?」 「…私のせいなんです。」 「え…ハルさんの?」 …私は事の顛末を全部話した。 何故そうなってしまったか、三千院家のご令嬢の気持ち、綾崎君はどこにいるのか。 もう最後のほうは完全に泣き声だった。 「ぐすっ…私がこんな気持ちにならなきゃ、綾崎君の人生を狂わせる事もなかったのに! ううっ…。」 「そんな事言うたらアカンて。人を好きになるっていうのは当然なんやし。」 「そうなのかもしれませんけど…」 咲夜さんがいくら言ってくれても、私の罪悪感は消える事はなかった。 それきり、しばらく黙り込んでいた咲夜さんだったが、突然座っていたベッドから飛び降りてこう言った。 「よっしゃ…ハヤテ探したる。ウチが絶対見つけたる!」 私はその言葉を聞いて、暗い心の中に光が射したような気がした。 「咲夜さん…。」 「言っとくけどな、これはハルさんのためだけちゃうねん。知り合いに挨拶もせんで勝手に出て行く名家の執事がどこにおるんや!…出て行くんやったら一言、ウチに言いに来んかい。」 居場所がないんやったら別にウチで雇ったる、と咲夜さんは私に背を向けて、窓から遠くの景色を見ながら言った。 「………ありがとう、ございます。」 「礼なんかええ。ウチがそうしたいんやからするんやし、それにまだ見つかってへんし。でも元気出しや?」 「…はい!」 この瞬間、私の重く暗かった心に一筋の、眩しい光が射した。 -------------------------------------------------------------------------- それから、5日の時間が流れた。 「それじゃ千桜ちゃん、行って来るからお留守番頼んだわよ。…そういえば最近元気ないみたいだけど、大丈夫?」 それが旅行当日の朝に言うセリフですかお母さん? 「はいはい…。大丈夫。」 「悪いなぁ。今度は家族みんなで行こうな。明後日には帰ってくるからな?」 「いいって別に…。2人で楽しんできてくれれば。」 私の両親は旅行へ行って、私はこの家に一人居残る事になった。 …この家で私が一人留守番する事は別に珍しい事ではなかった。 私の両親は仲が良く、仕事の関係で父さんが単身で長期出張したりすると私をほったらかして母さんがついていったりする。 だから私が一人でいるのも多かった。 普段だったら「またか…」と文句のひとつも言いたくなるけど、今回は都合が良かった。 綾崎君がどうなっているのかを知るために、私は待ち続けなくてはならなかったからだ。 何かが分かったら、真っ先に連絡を入れると咲夜さんは言ってくれた。 たとえもう会えなくたっていい。何をしてるのか心配だった。 日本中で、いやひょっとしたら世界中かもしれない中で1人の人を見つけるのは至難の業だって分かってる。 でもそれだけは知りたかった。もう何があろうとも覚悟は出来ていた。 でももし会えないと分かったら、私は綾崎君への想いを断ち切る事が出来るだろうか。 時折「良くない知らせが届くんじゃないか」って心が押しつぶされそうになって、涙が流れた。 それでも今にも折れそうな心を懸命に奮い立たせて、わずかな可能性に賭けて、私はじっと咲夜さんからの連絡を待っていた。 「………ダメだ。やめよう。」 この気分を変えようと、録画してたアニメを見ようとしても見る気がしない。 まだ読まずに本棚にしまってある本にも手が伸びない。何もする気がしない。 ただ気になってたのは綾崎君の事、それだけだった。それ以外を考える事が出来なかった。 …綾崎君、どこに居るんだろう? 私はもう一回、あなたに会いたい! 会ってもう一度話をして、もう会えないんだったらちゃんとお別れを言って別れたい。 ……いやいや何を言っているんだ!会って、もう一回2人でナギの前へ行って、話をして、謝って、今度は綾崎君との仲を許してもらいたい。 …それが難しい事というのは分かっているし、そしてそれはずいぶんと虫の良い事かもしれないけれど。 いつしか眠気に襲われ、私はすっかり眠ってしまっていた。 思えば、あの日から夜はろくに寝れていなかった。 涙で枕を濡らし、考えるばかりで寝付けない、そんな日が続いていた。 ピンポーン… 外を見るともう真っ暗で、玄関の呼び鈴の音で私は起きた。何だろう、宅配便か? いや、そんなもの頼んだ覚えはないけれどと今ひとつ眠気はとれず目をこすりながら、 「はーい…」 とドアを開けた。 「千桜さん…。」 ………… ………… ………嘘だよな。寝ぼけてるんだよな。 絶対そうだ。そうに決まってる!そんな都合のいい話がある訳ない! でもドアを開けた目の前に立っていたのは、私が今世界で一番、誰よりも何よりも会いたかった人そのものだった。 -------------------------------------------------------------------------- 「あ…綾崎君、なの?」 今起こっている事が信じられなくて、目の前の綾崎君に恐る恐る聞いてみる。 「はい。」 「…本当に?」 もう一度、念を押す。 「は……!」 綾崎君が言い終わらないうちに、私は玄関先で綾崎君を抱きしめてしまっていた。綾崎君を抱き寄せたせいでドアが勢いよく閉まって音を立てた。 抱きしめて直に感じる、綾崎君の体温と感触。これは本当なんだ。…現実なんだ! 「どこ行ってたんだよっ…!ほ、本当に…本当に、心配したんだからな!!突然あんな事言われたら、私……。私っ…!!」 いつの間にか泣き出していた。でもこれは今まで流した悲しい涙じゃなくて、愛しい人と再会できた嬉しさの涙だった。 「…すいません。」 と、綾崎君は私を抱きしめ返してくれた。 「僕もずっと会いたかったです。今までご迷惑おかけして…すいませんでしたっ!」 謝って、さらに謝る綾崎君。 「謝っても…許さない。私がどんなに辛い思いをしたか、本当に、…本当に辛かったんだからなっ! ぐすっ…」 綾崎君に辛く当たってしまった。でもその大きな原因は綾崎君なのだから、私の気持ちを分かって欲しかった。 「ごめんなさい、本当にごめんなさい!…もう僕はどこへも行きませんから!」 私を抱きしめる力が、より一層強くなった。 私は綾崎君をずっと抱きしめた(抱きしめられた)まま、話題は次へと移った。 「どうして帰って…来れたんだ?」 「お嬢さまに言われたんですよ。『帰って来い』って。」 「えっ。」 意外な返答に私は驚いた。てっきり咲夜さんが綾崎君を連れ戻したものと思っていたからだ。 「ここからずっと遠くの街でお嬢さまへの借金を返すべく深夜の道路工事をしていたらですね…、突然三千院家のSPの方がやってきてお屋敷に連れ戻されました。」 私は黙って、綾崎君の話の続きを待った。 「それで…お屋敷に帰ったら、お嬢さまが…泣きながら『私にはお前が必要なんだ!もう恋人じゃなくてもいいから、一生私の執事になってそばに居てくれ!もうこれ以上大事な人を失いたくないんだ!』と仰られて…っ!」 その言葉が心に来たのだろう、あふれた涙を指で拭って…綾崎君は話を続けた。 「それでそこから先はお嬢さまとも、マリアさんともよく話し合いました。そして僕は、ついにお嬢さまの許しを得る事が出来ました。」 許し、というのはつまり…。 「………。」 その事がどういう事か理解できた時、私は火がついたように顔が熱くなった。 「改めて……千桜さん、僕とお付き合いして頂けますか?」 綾崎君の濃い青色の瞳が、ずっと真っ直ぐに私を見つめてきた。 -------------------------------------------------------------------------- 「改めて……千桜さん、僕とお付き合いして頂けますか?」 一度会えなくなって、再会してこの世界で一番好きな人に言われたこの言葉。 ここで「はい」と言わない女の子が居るだろうか? 「…もうこれからはずっと、……そばに居てくれるなら。」 即答ではなかった。綾崎君がまたどこかへ行ってしまうかも知れないと不安に思ったからだった。 「はい。絶対に!…もう、もうどこへも!どこへも…行ったりしません!」 「なら約束に、その…、キ、キスしてくれないか?」 綾崎君と私は身長の差が10cmあった。 だから綾崎君は少しかがむようにして、私も少し背伸びして、そして綾崎君は私に…口づけた。 「んっ…。」 久々に感じるこの幸せな気持ち。 …あれ、やってみようかな。 そう思った私は綾崎君の口内へと、自分の舌を侵入させた。 「むっ!?」 最初は驚いた綾崎君であったが、綾崎君も意図を理解したのか負けじと舌を私の口へと差し入れてきた。 私の舌と綾崎君の舌と、生暖かく柔らかいものが触れ合う感覚。 不思議な…今まで感じたことのない感触。そして何かがわき上がって来る不思議な気持ち。 私はその不思議な感覚に囚われていた。 「ぷはっ…。」 息が持たなくなってきて、長い長い3回目のキスが終わった。 「千桜さん。」 「綾崎君…。」 お互いが、お互いを見つめていた。 「今日は、綾崎君を離したくない。」 「…僕もです。」 私がそう言った時、ここがまだ玄関先だということに気づいた。 「その…ここじゃなんだし、…私の部屋へ、行かないか?」 「…分かり、ました。」 …よく考えてたら私、外には見えないようにドア閉めてたけど、玄関先であんな大胆な事してたんだよな…。 熱くなりすぎてもう何かどうにかなりそうな感じだった。 そう思うと、再び私の体温が上がった気がした。 「千桜さんの部屋、ぬいぐるみがいっぱいなんですね。」 「その何ていうか…趣味みたいなものだよ。可愛いのがあるとついつい集めちゃって…これ、覚えてる?」 私は初めて綾崎君が取ってくれたぬいぐるみを綾崎君に手渡す。 「これは…あの時のやつじゃないですか。大事にしてくれてるんですね。」 覚えてくれていたみたいだ。嬉しかった。 他愛もない事を喋る訳は、なにやらわき上がってきてしまっている変な感情を抑えるためだ。 「…千桜さん。」 「…!?」 手にしていたぬいぐるみを取り落としてしまった。 なんだろうかと振り向いた瞬間、再び私は抱きしめられてしまっていたのだ。 「その…すいません。しばらく…このままでいいですか? 何か…千桜さんに触れていないと、千桜さんがどこかへ行っちゃいそうな気がして…。」 綾崎君は少し恥ずかしそうに言った。 「…どこかへ行っちゃったのは綾崎君だろ。私は…どこへも行かないよ。ずっと…ずっと綾崎君のそばに居るから…。」 さっきみたいに、私は綾崎君を抱きしめ返していた。 …二人の体が密着してお互いの体温を感じる。 今はこうしているだけで幸せだった。 -------------------------------------------------------------------------- ずっと抱きしめていた(抱きしめられたまま)のこの状況に変化が起こったのは、お互いこうしてからしばらくしての事だった。 「……?」 綾崎君の様子が何かおかしい。 目線を私からそらしたり、目を瞑って何かに耐えてるような表情をしていたからだ。 何が起きたのだろうか? 「綾崎君?どうかし………!」 と私が少し体を動かした時、綾崎君がそうしている理由を知る事になった。 …私のお腹の辺りに、何か少し熱くて硬いものの当たる感触があった。 何だろう? ………… ………… 私は思考を一巡りさせて、これが何かを理解した。 理解した瞬間、私はサッと頬が熱くなっていくのを感じた。 当たっていたもの…それは私の持っていない、男の子にしかないものが当たっている感覚だった。 いくら女の子みたいな顔をしてても、やっぱり綾崎君は健全な男の子なんだな。 …黙って綾崎君を見上げてみると、 「すいません、その…出来るだけ意識しないようにしてたんですけど、胸とか…ずっと当たってて、それで…べ、別にですね!やましい事とか、決してそういう事を考えたわけじゃ…!!」 私から離れて、少し前かがみになりながら顔を真っ赤にして言う綾崎君。 綾崎君はああ言っていたけれど、こうなってるって事はつまり私をそういう意味で意識してるって事だよな。 ………… ………… また思考が一巡りしたところで、それがつまりどういう事かを理解した。 …ちょっと待ってくれ、私は…まだ心の準備が出来てないんだ! 考えるためにちょっと時間が欲しかった。 それを踏まえて私が言った事は…… 「ごめん、…ちょっとお風呂行ってきてもいいかな?」 「…はい。」 お風呂に行く事だった。 …身体を普段より念入りに洗って、浴槽に浸かる。 前に読んでた漫画で見たシーンが頭をよぎる。 さっきの綾崎君の変化を感じて、私はつい2週間ほど前の愛歌さんのセリフを思い出していた。 ――――このままならそう遠くないうちに、千桜さんも綾崎君と一緒に一線を越えてしまうかもしれないわね♪ 今まさにそうなりそうな状況だった。もう一歩出せば、その一線を越える。 ――――大丈夫よ。好きな人とはいずれ通る道なんだから。 大体、それは深い純愛の上に成り立つものなのだから安易にそんな関係になってはいけないと前に思った。 いや、待て?今…その時が来ているんじゃないか? 私は綾崎君がいなくなって…たくさん泣いた。 もう会えないかと思って何度も心が折れそうになって泣いた。でも綾崎君は帰ってきてくれた。本当に嬉しくてまた泣いた。 綾崎君も私にずっと会いたいって思ってくれていた。 三千院家のご令嬢が綾崎君を許してくれた。……私を許してくれたかどうかは分からないが。 そして綾崎君が戻ってきてくれた今、私はこう思う。ずっとずっと、綾崎君と居たいと。 私はもっと綾崎君を知りたいと。そして「私」の全部を綾崎君に知ってもらいたいと。 ………。 愛歌さんも言っていた。「いずれは通る道」なんだ。 綾崎君と夜、二人きりになれるなんて…これからはそうないはずだ。 だから…決して早い訳じゃない。今がその「タイミング」なんだ。 そう私は自分で自分の心に決着をつけると、お風呂から上がった。 お風呂から上がって、身体を拭いて、寝間着に着替える。 眼鏡は掛けるけど、髪は下ろして再び私の部屋へ入る。 「千桜さん…。」 「綾崎君…いや、『ハヤテ君』。」 数ヶ月前以来、ずっとしてなかった綾崎君への名前呼び。 私が、今後ずっと綾崎君をそうやって呼び続けられるようにとの気持ちもあって、勇気を出して呼び方を戻した。 「はい。」 「今、持ってる私の全てを…ハヤテ君にあげる。だから、……ハヤテ君の想いを全部、…私に、くれないか?」 言ってしまった。もう…後へは戻れない。 「分かりました。…ですが、もし『これからする事』でその後千桜さんに何かあったら、僕が全部責任を取ります!」 ここにはそれを想定したものは一切なかった。だから私には背負うかもしれないリスクがあった。 ハヤテ君の言葉に、私をとても大事に扱ってくれているという気持ちが感じられて嬉しかった。 「後…僕、こういう事は初めてなので…出来る限り優しくします。けど、もしかしたら千桜さんを傷つけてしまうかもしれません。それでも……後悔はしませんか?」 ここまで来て、今更そんな事言える訳ないじゃないか…。 それに、それを覚悟の上で私はそう言ったんだ。私は黙って、頷いた。 「千桜さん…!」 「来て…」 二人抱き合って、ベッドの上へと倒れこんだ。 -------------------------------------------------------------------------- 翌朝。 8月ももう終わりにさしかかろうとしているが、セミの鳴き声の勢いは止まることはなく、騒がしい中で私は目覚めた。 起きた私の隣に…ハヤテ君の姿はなかった。 「そうか……夢だったんだな。」 一人、私はベッドの上で独り言を呟いていた。 さっきまで見てた夢…それはずいぶんと鮮明で、そしてとても私にとって都合のいい夢だったような気がする。 ハヤテ君と再会して、たくさんキスして、本当に深いところまで愛し合ったような…そんな感じだった。 「はぁ…我ながら、なんて勝手な夢を見てるんだか…。」 少し悲しくなった。大体、そんな事なんてある訳ないよな。 携帯を見ても新着は1件も入っていなかった。 …そうだよ。咲夜さんから連絡もないんだし、……『綾崎君』はまだ帰ってきていないはずだ。 ひとまず、下に降りよう…。 と、ベッドから降りようとした時だった。 「――――っ!」 何かが挟まっているような痛みをある部分に感じて、私は思わずその場に座り込んでしまった。 痛みを感じる場所に何かをした覚えはなかった。つまりこれは…あの夢だと思っていた事は現実だった、という証明だった。 こんな事で夢じゃないと確認するのもひどい話だが、昨晩はそれだけ、本当に夢のような時間だったんだ。 そして誰かが階段を上がってくる音が聞こえて、ドアが開いた。 「おはようございます、千桜さん。」 階段を上がってきたのはハヤテ君だった。その姿を目で確認して、全てが夢じゃなかったというのを改めて再認識した。 「いたた…。はは、…ハヤテ君。」 床に座り込んでいる私を見て、 「ど、どうされましたっ!?え、えと、何かありましたか?」 と、駆け寄ってきた。 「ちょっと…痛いだけだよ。大丈夫、耐えれるけど…ちょっと、手を貸してくれないか?」 「無理はしないでくださいよ?……はい。どうぞこの手に掴まって下さい。」 ハヤテ君が差し伸べる右手に掴まって、何とか私は立ち上がる事が出来た。 「そういえば…勝手に朝食を作らせて頂いたんですけど、お召し上がりになりますか?」 「え…、あ……うん。」 ハヤテ君に掴まらせてもらいながら階段を降りて、テーブルにつく。 そこには、品数が多い朝食が並べられていた。 「え…。これ、私が寝てる間に全部?」 「そうですよ。少し冷蔵庫の中を調べさせていただきましたけどね。…では、どうぞ。」 と、ハヤテ君が勧める。 「いただきます…。」 「では僕も…いただきます。ここ、失礼しますね。」 ハヤテ君も向かい側の席に座り、食べ始める。 「如何ですか?」 文句のつけようもないくらい、おいしかった。 「…おいしい。…ありがとう。」 「なら良かったです。」 笑顔のハヤテ君に私はドキッとしてしまう。 いつも思うが、その笑顔は反則だ…。 「………。」 「どうかされました?」 「いや、何でもない。」 「…そうですか。」 …こうして、なんだか落ち着かない朝食の時間は過ぎていった。 -------------------------------------------------------------------------- 「では僕、一回お屋敷のほうに帰ります。その、また、当分前みたいな事に会えない日が続くと思いますけど……ごめんなさい。」 玄関先で申し訳なさそうに言うハヤテ君。でも、 「分かってるよ。…執事の仕事、しっかり頑張ってくれよ。」 「はい!頑張ります! ……では!」 最後に軽くキスを交わして、ハヤテ君は帰っていった。 昨日は特別だったんだなと、改めて思った。 でも、私は別に満足だった。 そりゃ…ハヤテ君がずっとそばに居なくても幸せかと言えば、それは嘘になる。 でも、これからはいつだってハヤテ君の声だって聞けるし、会う事だって出来るんだ。 一度はあきらめていた事が、また出来るようになった。 そしてそれは「いつも通り」の、日常へ戻っただけ。 これからも、前よりむしろもっと密になって、ハヤテ君と進んでいけるのだろう。 そういえば……もうすぐ私の誕生日だっけ。最近はそれどころじゃなかったからそんな事すっかり忘れてたな…。 この事は…ハヤテ君に言うべきなのかな。…それとも、言わないべきか。 う〜ん、気を使わせちゃったら悪いよな…。ハヤテ君はただでさえ借金抱えてるんだし。 …よく晴れた夏空を窓から見上げながら、私はそんな事を考えていた。 お屋敷へ戻ったハヤテ君から再び連絡があったのは、同じ日の昼過ぎだった。 「あの…お嬢さまが千桜さんにお会いしたいとおっしゃられているんですが、今…大丈夫でしょうか?」 …突然だった。ナギが、私に会いたいと言ってきた。 私がハヤテ君と付き合ったがために、「泥棒」だと言って、嫌われてしまったあの子に。 そして私と目の付け所は違うけれど、話題を共有して話せる唯一の子に。 そのナギが、私に会いたいと言ってくれたって? …私だって会いたいと思ってた。謝りたかったし、出来る事なら仲直りしたかった。 だからそれは願ってもない話だった。 私は外出の準備を整えると、三千院家のお屋敷へ向かって歩き出した。 真っ青な爽やか過ぎる空の下、そして暑い中を私は歩いて、三千院家のお屋敷に到着した。 玄関の呼び鈴を鳴らして、玄関で待つ。 「お待たせしました。おや、あなたは…。」 出迎えてくれたのは三千院家のメイドさん、マリアさんだった。 「こんにちは。今日はその…こちらのお嬢さま、…ナギさんに会いに来ました。」 「お待ちしてましたよ。では、こちらへ…。」 「はい…。」 マリアさんに案内され、お屋敷の中を誘導されて、ついに、目的の部屋へと到着した。 「ナギ。春風さんが来られましたよ。」 ドアをノックしてマリアさんが言う。 「分かった。通してくれ。」 聞こえたのは、いつも通りの声。 前に聞いた電話口での怒声とは違うものだった。 「どうぞ。」 部屋へのドアが開けられ、私は久しぶりにナギと対面した。 部屋に入ったのはいいものの、私は話しかける事ができなかった。 結果的にナギからハヤテ君を奪った事になったのを、私は後ろめたく感じていたからだ。 「前は…悪かったな。」 話を先に切り出したのは、向こうだった。 「私は…自分が勘違いしていただけなのにハヤテの本当の気持ちに気づかず、ひどい事を言ってしまった。」 一呼吸置いて、更にその話は続く。 「それで…自分と話が合うような、合わないような、でもそれでも友達になれそうだったお前を突き放してしまった。…本当に、悪かったな。すまん。」 ナギの言葉は謝罪だけだった。私を責める言葉など一言もなかった。 声のトーンを落として言うナギに、私に罪悪感が満ちてくるようだった。 そしてその罪悪感に耐えられなくなった私は、 「いや…」 と謝る言葉を言おうとするも、 「言うな!」 と、強く遮られてしまった。 「それを言うな。お前はハヤテに選ばれたんだぞ!? 私が…私がそうなれなくて辛いというのは嘘になる!でも、選ばれたお前がそんな事を言ったら、私はどうすればいいんだ!?」 涙目だった。でも、そう言うなら。 「……分かった。」 としか言いようがなかった。 心が痛んだけど、その通りにしないと私はあの子をもっと傷つける事になる。 「でも…まだ私は諦めていないからなっ!ハヤテだって人間だ。お前がその…結婚するまでどう転ぶか分からないしな。気をつけろよ!」 そう言って健気に強がる姿に私は泣きそうになる。 「…まぁ、ハヤテは想いに芯の通ってるやつだから、ずっと一途だろうがな…。それでも……私はお前がハヤテと結婚するまで諦めないぞ。」 「ナギ……。」 「そんな顔をするな。」 「…ごめん。」 「……ところで、お前に聞きたい事があるんだ。」 さっきまでの空気を断ち切るかのように、ナギは別の話題を私に振った。 「何?」 「いや、お前さ、『とある家庭と近所目録』の神坂さんってどう思う?」 ナギが振ったのは以前、会話してた内容と同じようなこと。 「えっ…普通に可愛いと思うけど。そういや来月このキャラのマスコットが出るから買うつもりだよ。」 「やっぱりそうか。お前好みだと思ったからな。……そうだ、今度秋葉に行こうと思ってるんだけど、お前一緒に行かないか?」 思わぬ話だったけど、私はもちろん、 「…いいよ。喜んで。…案内してやるよ。」 と答える。 いつになるかは分からない約束をして、アニメ談義とかいろいろして、話していくたびに…前の、友達のような関係に戻っていった。 一週間前にあった事はなかったかのように。 そしてお屋敷から帰る頃には、すっかり元通りに近いくらいになっていた。 「また来いよ。」 「…ああ、また来るよ。」 …仲直りできて良かった。いつ、ナギと一緒に出かけようかな? 私はそんな事を考えながら、家路についていた。 -------------------------------------------------------------------------- …日付は進んで、夏休みもあと1日となった8月30日。 今日は私の誕生日で、昨日旅行から家族からお祝いを貰い、咲夜さんからもお祝いを貰い、ただそれだけでも幸せな一日だった。 そして夜になって、私は近くでやっていた花火大会に来ていた。 私一人だけではない。ハヤテ君と一緒だ。 「…お嬢さまがお気を利かせて今日の夜はお休みにして頂けましたので、一緒に近くの花火大会でも見に行きませんか?」 昼過ぎにそんな内容のメールが来て、今はハヤテ君と二人で花火大会を見に来ているのだった。 すでに花火大会も中盤に差し掛かって、河川敷ではたくさんの見物人が空を見上げていた。 花火が上がるたびに歓声が沸き起こる。私たちもその中の二人だった。 「やっぱり夏といえば花火だな。あ!また上がったぞ!」 「そうですね〜。」 「えと…今日はさ、浴衣を着てみたんだけど…どうだろう?」 浴衣なんか着るのは久しぶりだった。 別に普通の服でも良かったんだけど、やっぱり花火大会を見るというんだったらと思ったし、浴衣を着た私をハヤテ君に見てもらいたかったという気持ちも半分あったからだった。 「よくお似合いです。可愛いですよ。」 その一言に私は安心した。 「ありがとう。…着てよかったよ。」 一見普通に見えるかもしれないやり取りだが、今日のハヤテ君に私は違和感を感じていた。 いつもは良くしゃべってくれるハヤテ君なのに、今夜は私から話しかけないと喋ってくれないほどに口数少なめだった。何かがあったんだろうか? 「なぁハヤテ君、今日はその…何かあったのか?」 違和感に耐えかねて、私は思い切って勘違いかもしれないけど聞いてみた。 「えっ!?いえなぜそんな事を?」 「いや…何か今日、いつも良く喋ってくれるのにあんまり喋らない気がしたから・・・。」 「…! ええいやそんなことはないですって!たまたまですよたまたま。そう思わせてしまったのならすいません。」 一瞬驚いたような表情を見せたハヤテ君だったがすぐにもとの様子に戻っていた。 私の…勘違いだったのかな。 そのハヤテ君の違和感が何故なのか分かったのは…花火大会も終わって二人で帰っている時だった。 私は一人で帰るつもりだったのだが、ハヤテ君が、 「いけません! こんな時間に女の子を、それも千桜さんを一人で帰らせるなんてそんな事…僕には出来ません!家まで送らせて頂きます!」 …と言われてしまったから、今はこうして二人で帰っているという訳だ。 もううちも近くなって、そろそろ「ありがとう。もういいから」と言おうと思っていた時の事だった。 「すいません。ちょっと千桜さんにお話があるんで、そこに寄らせて頂いてもいいですか?」 と、言われてハヤテ君が指差したのは、うちの近くにある公園だった。 そういえば、初めてハヤテ君とキスしたのも、ここだったっけ。 「え…あ、うん、別にいいけど…。」 珍しいな、ハヤテ君が寄り道だなんて。 「ちょっと千桜さんに伝えたい事がありまして。…聞いて、頂けますか?」 「…いいけど?」 「ありがとうございます。…それでは、始めさせて頂きますね。」 言い終わって突然、ハヤテ君が真剣な表情になった。 何かの決心を決めた表情。月明かりと街灯に照らされた薄暗い公園でも、その表情ははっきりと分かった。 そして分かる。「今、この人は何か重要な事を私に言うつもりだ」と。 「……本当の事を言うと、借金持ちの僕はこんな事を言える資格がない人間なんですが…」 借金持ち?こんな事が言える資格がない?…ハヤテ君から最初に出た言葉では、私はさっぱり要領を得なかった。 だから私はそのままハヤテ君の話を聞く。 「お嬢さまも本当に大事なんです。『一生守る』ってお母様に誓いました。だから…僕、不安なんです。」 徐々にハヤテ君の言いたい事が見えてきたような気がした。 「この先、生涯一緒になる人を選ぶ事になった時…僕は本当に千桜さんを選べるのかどうか。」 …えっ!? 「……おかしい、ですよね。千桜さんの全てを頂いておきながら…僕は『二人を選べない』なんか言うなんて。」 頭をかきながら、ハヤテ君は呆れた声で言った。 「ですから…僕は今後絶対に千桜さんを選ぶために、今言っておこうと思います。」 声のトーンを戻して、真剣にハヤテ君は言った。 それってまさか…。 「今は無理ですけど、学校を卒業したら…その、僕と……結婚してくれませんか?」 ………………。 あまりにも突然すぎて、思考を3回ループさせたところで私はハヤテ君が何を言っているかを理解した。 けけけ…結婚だって!? 私はまだ17歳、ハヤテ君は16歳じゃないか。 いくら…いくらなんでも展開が早過ぎないか? 「えっと…あの、冗談じゃ、…ないよな?」 こんな所で冗談を言う人じゃないというのは分かっていたけど、私は突然のハヤテ君のプロポーズが信じられなくて、念のために聞いてみた。 「はい。僕は…本気です! 借金もなんとか頑張って早く返済します! そして…僕はずっと千桜さんのそばに居たいんです。」 ……………… ……………… ええっと…こんなところで人生の選択なのか? もっと…もっと後に来るものと思っていたのにな。 けれど、このハヤテ君の言葉は私がハヤテ君からいつか聞きたかった言葉でもあって。 いつかこうなればいいのになって、ふと前に漠然と思った事だった。 それを今、ハヤテ君が言ってくれて、その願いが現実になりそうになっている。 「……ダメ、ですか?」 決めた。…私だってこれからもずっと、ハヤテ君のそばに居たい! 「…こんなに、こんなに…とんでもない誕生日プレゼントを貰ったのは初めてだよ。」 嬉しさに涙がこぼれそうになった。 「えっ、今日誕生日だったんですかっ!?」 「そうだよ。ありがとう。」 「って事は…、えっと…」 「…不束(ふつつか)者だけど、これからもよろしくな。」 「はい!」 自然な流れに任せて、私達はキスをしていた。 公園の街灯に照らされた、一足早い誓いの口づけ。 これからずっとハヤテ君と一緒に歩んでいく、私の第一歩だった。 -------------------------------------------------------------------------- 時は流れてそれから3年後、よく晴れた夏の朝。 「では僕…行って来ますね。」 「…気をつけて頑張ってきて。」 「分かってますって…あ、今日はお嬢さまに言ってあるので早く帰ってきますね。」 「え、ああ…うん。」 あれから借金を何とか返済し、今は自分の意志でナギの執事になって住み込みをやめ、今は三千院家へ「出勤」するハヤテ君を見送った後、 「…そろそろ、私も行くかな。」 ハヤテ君を見送ったてしばらくして、私も仕事へと出かける準備をする。 「おはようハルさん。今日もええ天気やなぁ。」 「そうですね。今日は如何しましょう?」 「そうやなぁ〜…」 あれから私はハヤテ君と約束どおり結婚し、苗字が変わって「綾崎千桜」となっていた。 そして仕事もバイトではなく、正式に咲夜さんの専属メイドになっていた。 そしてこのお屋敷に勤めて、もう3年目に入ろうとしていた。 「そういやもうあれからもう1年経つんか。早いもんやね〜。」 咲夜さんが机に飾ってある小さな写真を見て言う。 「ええ…。」 「ウチもええ人そろそろ探さんとあかんなぁ…」 「咲夜さんならきっといい人に巡り合うことが出来ますって。」 17歳になった咲夜さんはとても綺麗になっていた。 社交界へ行くたび声が多数かかるそうだが、心に来た男の方はまだいらっしゃらないらしい。 「んー、それならええねんけどなぁ〜。すぐ見つかるんやったら苦労はせぇへんねんけどな〜…。……あ、そや。」 「はい? 「今日は早く帰ってええで。 …今日はいろいろと大事やろ?」 「え…はい。ありがとうございます。」 ――――そう、今日は8月30日。 私の誕生日。そして、3年前ハヤテ君が私を選ぶと決めてくれた日。 本当に結婚するまでいろいろ辛い事や苦しい事もあったけど、今の私はとても幸せだった。 でもその裏ではヒナギクやナギ、そして咲夜さんが流した涙がある事を知っていて、それでも私たちを祝福してくれた。 そしてその分だけ、私は幸せになれた事も知っている。 本当にみんなに感謝しきれないぐらいに感謝の気持ちでいっぱいだ。そうして、今の私はハヤテ君とともにここにいる。 今までも…そしてこれからも。 「チハルのごとく!!りみてっど!!」 完 -------------------------------------------------------------------------