*檻の鍵は手のひらのなか 時折、このままでいいのかと思うときがある。 今がまさにそのときで、僕はゆっくり顔をあげた。 「どうした?」 すぐ傍にある温度。 眼鏡越しの穏やかな瞳が微笑んで、僕を見つめている。 僕の体は、兄の懐中にあった。 ソファの上で、二人ぼっちくっつきあっている。 体は兄さんの両腕に抱き締められて、動けない。 優しい温度に浸るだけの時間が流れていた。 交わす言葉は少なく、兄さんはゆるりゆるりと僕の頭を撫でている。 腕の中の僕を確かめるように。 「……別に。何も」 「そうか」 深くは聞かれない。代わりに、唇が髪に触れ、額に触れ。 最後には瞼に落ちる。 温かなキスに、僕は目を閉じた。ほんのわずかの、罪悪感と共に。 世界にただ一人の家族、兄との生活。 兄さんとの生活は、ただひたすらに幸福に満ちていた。 穏やかで優しい揺り籠。兄さんの腕の中で暮らしていけるなら、どれほどに幸せだろうか。 昔は、何も知らずにそう願っていた。 兄さんとずっといたいと。 けれど高校に上がり、世界が広がるにつれて、それではいけないと思うようになった。 クラスには自分たちのように寄り添い合う兄弟などいないと知ったし、家族に頼るだけでなく、自分で生活資金を稼ぐ者もいると知った。 何より。 兄は何かを隠しているのではないかと、感じるようになったのだ。 ふとした瞬間に陰る表情。遠い空を見つめる瞳。 そして、こうして抱き締められる時間。 兄は何かと戦っているように、僕には思えた。 隠し事が嫌だと言う訳ではない。 全て包み隠さず話してほしいと言うほど、僕は子供でじゃない。 寂しいけれど、兄には兄の世界がある。それは、独りぼっちの夜を過ごすたびに学んだことだ。 そうではなく――もし。 もしも自分の幸福が、その兄の葛藤の犠牲の上に成り立っているのだとしたら。 考えただけで恐ろしくなった。 何も知らないままでいられないと焦りに駆り立てられた。 けれど、いざ聞こうにも僕には言葉がなかった。 「隠し事はない?兄さん」 そんなこと、口にも出せない。 兄を疑うような問いかけは、心を注いでくれる兄に対して失礼な気がしてならなかったのだ。 だから、言えない。 だから、このまま。 温かな幸福の腕の中で、抱き締められるばかり。 このままではいけないと、分かっているのに。 「……兄さん」 「ん?どうした」 「あの、さ」 「どうした。悩み事か」 優しい手が、頭を撫でる。慈しむように。 お前は宝物だと語るように。 「……俺、今度の誕生日が来たら」 「欲しいものでもあるのか?よし、何がいい」 「そうじゃなく、て。その、バイト、しようかなって思うんだ」 「バイト?」 「そう。あ、もちろん家事だって、食事だって疎かにはしない。でも」 「小遣いが足りないか?」 ひたすらに穏やかな声音。 しかし、それはどこか意思を絡めとるように僕の耳に入ってくる。 「そんなことは!でも、俺だっていつまでも兄さんに頼ってばかりじゃ……」 「いられない、か。お前も大人になったな」 「兄さん!」 「悪い。子供扱いはする気はないんだが、つい、な」 「……もっと色んなことを知りたいんだ。兄さん。頼るだけじゃない。頼られる人間になりたいんだ」 兄の顔を見据えて、言う。 だが兄さんはただ穏やかに笑うばかりだ。 いいとも悪いとも言わない。僕に選択を委ねる眼差しで、僕の言葉を聞いている。 けれど、その双眸は抗う意思を奪うような色をしていて、僕は咄嗟に顔を逸らした。 「……兄さんに、頼られる人間に」 このままだと飲まれてしまう。 でもいつまでもあの罪悪感に浸っている訳にもいかなくて、と言葉を転がしていると 「俺は十分、お前に頼っているよ」 兄さんは僕をそっと抱き直し、その肩に顎を乗せた。 ぎゅっと密着が深くなる。熱い温度に頬が火照る。 「どこが」 思わずぶっきらぼうに答えるが、返ってきた言葉は 「――俺は、お前がいなかったら生きていけない」 背筋を、ふるり、と震わせた。 低く、真剣な。今までに聞いたことのないような――静かな、声。 「そ、そりゃ……僕がいなかったら兄さん、ロクに食べられないだろうけど」 「そう言う意味じゃないさ」 苦笑する気配。 だが声は変わらず、耳元で囁かれるだけで、体の何かが粟立つ気がした。 ぞくぞくする。 「お前がいなかったら、生きていけないんだ」 「――……にい、さん」 強く抱き締められる。 その抱き締める腕をそっと撫でれば、首筋に口づけられた。 熱い唇の温度。こんなこと、兄弟でしないなんていうのも僕は知っている。 それでも知らないふりで、兄を受け入れる。 兄にこうされるのが、好きだから。 兄さんが、好きだから。 「……まあ。バイトがしたいっていうなら止めはしないよ。どうせ保護者の許可もいるだろう。書類を貰ったら見せなさい」 「うん。ありがとう」 と、答えるものの――見せることはないだろうと僕は思った。 兄さんは僕が外へ出ることをきっと望んでいない。そんな兄に書類を見せるだけ、無駄だ。 内緒でするか、それとも。 考えたけれど、結論は出ないので僕は止めた。 まだ先の話だ。 また先の話だ。 「もうそろそろ、夕ご飯の準備、しないと。兄さん、何食べたい?」 「そうだな、パスタがいい」 「分かった。じゃあ買い物に行こう」 「ああ」 ――今しばらくはこの甘い腕、柔らかい檻の中で過ごすことになるのだろう。 絶対的な幸福と、罪悪感に苛まれたままで。 このままではよくないと分かっていても。 愛する人の望むままに。 囚われる。 ――俺は、お前がいなかったら生きていけない 思わず出てしまった言葉を、俺は少しだけ後悔していた。 そんな言葉、高等学校に上がったばかりの子供に言ってどうなるものでもないのに。 それでも、言わざるを得なかった。 それほどまでに、俺は弟を愛していた。 夜のリビング。弟はソファの上でテレビを見ている。 テレビ番組に夢中らしい無邪気にほころんだ横顔に、俺も笑ってしまう。 ――色んなことを知りたい。 そう告げられた瞬間、呼吸が止まるかと思った。 父が本当に愛した女性との隠し子。その母親は死んでいる。 遺産の分散を恐れた親族の手によって。 よりにもよって血の繋がった親族に、弟の母親は殺された。 そんな奴らのあらゆる悪意から弟を守ると決めた日から、俺の全ては弟のものになった。 ただひとりのためなら、命などどうなってもいい。 その笑顔が守れるならば、自分の存在などどうなってもいいと。 でも、その決意を弟には知られたくなかった。 知ればきっと弟は苦しみ、そして悪意と戦っていくだろう。 弟は、優しくともそう言う強さのある子供だと分かっていた。 だからこそ。 弟には何も知らずにいてほしかったのだ。 だが一族のそれと、社会の一般常識を同列に扱うなどどうかしていると俺は苦笑する。 そこまで過保護にしては弟のためにならない。 弟には幸せになって貰わなければならないのに。 いつか普通の就職をして、お嫁さんを貰って、家族を作って――その命を全うしてもらわなくては。 (……俺の、いない世界で?) そう。 それでいい。 はずなのに。 昏い感情が渦を巻く。 あの小さな手が自分を深い闇から連れ出してから、その小さな温度なしには生きられなくなった。 兄弟、血筋を越えて、弟を愛している。 異常だ、そんな感情は異常だと己を諌めたこともある。 けれど、結局変わらなかった。 弟をひとりの人間として愛する気持ちは、揺るがなかった。 自分たち兄弟の有り様の異常さを、今はまだ弟は気づいていない。 だがそろそろ世間とのずれを感じる頃だろう。 そうなったとき、自分は弟を手放すことが出来るのだろうか。 (コンプレックス、で済めば笑い話なのにな) いつまでもいつまでも、自分だけを頼って。 盲目的に縋ってくれればいいのに。 雛鳥が親を慕うように。 俺の世界の中だけで、幸せだと笑っていてくれればそれでいい。 いつまでも。 いつまでも。 「……ん?」 と。ふと、視線をやれば、弟がソファに突っ伏している。 リモコンを持った手はだらりと伸びていて――どうやら眠ってしまったようだ。 先程まで、楽しそうにテレビを見ていたくせに。 「寝たのか?」 椅子から立ち上がり、声をかける。 返事はない。 どうやら本格的に寝入ってしまったらしく、くーくーと幼児じみた寝息まで聞こえてきた。 「……風邪をひくぞ」 まったく、とひとりごちて。俺は弟の体をひっくり返す。 そして、膝の裏に腕を差し込み、そっと抱き上げた。 成長途中の少年の体は見かけよりも重い。 だが、その重みが心地よいと弟を部屋まで運ぶ。 「ん……ぅ……」 冷たいシーツの温度に、弟は小さくもがく。 しかし起きる気配はない。そんなに疲れているならさっさと寝ればよかったのにと苦笑する。 もしかして、気を遣ってくれていたのだろうか。 分からない。 それでもあどけない寝顔に笑みがこぼれる。 どんな夢を見ているのだろう。 出来れば、幸せな夢であればいい。ずっと微笑んでいられるような。 「……にい、さん……」 零れた寝言。家族としての親愛の情と、男としての愛情と。 胸を疼かせるその言葉に、俺はつとベッドに手をつき 「おやすみ」 そっと、唇に口づけた。 彼が意識あるときには絶対に触れることのない、その場所へ。 キスをして、弟の部屋を出る。 静かなリビングにはテレビの声だけが響いていた。 それを消して、俺は静寂の部屋で独り願う。 ずっと俺の傍にいてくれ。 俺の帰りを待っていてくれ。 そのためなら、何でもする。 だから。 俺の可愛い弟。たった一人の愛し子。 (そのままのお前でいてくれ) 醜い独占欲だと分かっていても。 俺はこの腕を、檻の鍵を外す気になどならなかった。